薗田碩哉の遊び半分

カイヨワの4つの遊び

遊びには実に様々な種類がある。いたいけな子どもたちだって、1つや2つでなく、たくさんの遊びを遊んでいるし、大人となれば、身体遊びから知的な遊び、言葉遊びや山遊び、回遊、旅游から果ては夜遊び、女遊び、男遊びまで、遊びの多様性は限りない。紀伊国屋社長で遊び人で知られた田辺茂一氏は「遊びの幅は人間の幅」と喝破された。遊びを豊かに体験することで、人間味も増すというわけだ。

だがここに、そんな世間の常識に真っ向から挑戦する社会学者が現れた。知性の国を持って鳴るフランスのロジェ・カイヨワ先生である。カイヨワさんは言う。遊びにはたったの4つしか種類はないと。『遊びと人間』と題した1956年の本の中で、遊びは詰まるところ次の4種に尽きるとして次のような遊びのカテゴリーを提示された。

アゴーン agôn
ギリシャ語で「競技」の意競う遊び
ミミクリー mimicry
英語でものまね模擬の遊び
アレア alea
ラテン語でサイコロ偶然の遊び
イリンクス ilinx
ギリシャ語で渦巻めまいの遊び

カイヨワさんに言わせれば、遊びというのは要するに、何らかのルールのもとに競争し合うか、互いにものまねをして協調しあうか、偶然と戯れて賭けを楽しむか、ぐるぐる回って目を回して面白がるか、本質的にはそのどれかで、いろいろあるように見えるのは、いずれもどれかの型のバリエーションに過ぎないのだと。そしてこの4つの型は、たわいない子どもの遊びから大掛かりで真剣な大人の遊びまでを貫く遊びの原型であると。

確かに言われてみれば、子どものかけっこも取っ組み合いも的当ても、ルールを決めて対等に競い合って楽しむものである。それはルールが細かくなって用具が整備され、ユニフォームに身を包んで全力を挙げて打ち込むスポーツと、その本質においては同等である。あるいは、子どもたちがごく自然に行っている「ままごと」は、役割を決めて架空の世界を作り出すという点で、立派な劇場で名優たちが展開する演劇とまっすぐにつながっている。じゃんけんやすごろくも、パチンコ、競輪・競馬、ルーレットなど大人が狂奔するギャンブルと同じく、自分ではどうすることもできない「運」に身を任せているのだ。小さい子どもが大好きなぐるぐる回り、ブランコや滑り台を楽しむ感覚は、ジェットコースターのスリルやスキーの直滑降やオートバイの疾走と一続きのものである。

遊びをその外延(1つの概念の適用範囲)でみれば、多種多様な要素を取り込んで無限と見えるほど広がるが、その内包(共通の意味)から見れば、結局のところ、アゴーン、ミミクリー、アレアにイリンクスの4つに整理されるというわけだ。これはなかなか説得力ある見方であり、雑多な遊びの分類枠として十分実用に耐える提案だと思われた。

もう30年以上も昔のことだが、遊び研究を志す仲間とともに、カイヨワの枠組みであらゆる遊びを分類した遊びの辞典を作ろうという無謀ともいえる試みに挑戦した。眼に入る限りの遊びの名前をカードにして、この4カテゴリーに仕分けしていった。「競う」と言ってもいろんな競い方があって、「速さを競う」「力を比べる」「技を競う」…などの小分類を立てて分けてゆくと、なかなか見事に遊びの仕分けができた。その中をさらに細かい区分を作って分けていく。「模擬」や「偶然」についても植物の分類みたいな仕分け図ができた。イリンクスについては、カイヨワ説を少し拡張して「感覚を楽しむ」遊びとし、正常感覚と異常感覚に分けた。ぐるぐる回りのめまいは、この異常感覚を楽しむ遊びということになる。

だが、どうしてもこの分類項に当てはまらない遊び群が見いだされた。それは「ものを作る」遊びである。もちろん何かを作って出来栄えを比べれば競う遊びになるのだが、競争しなくても作ること自体が楽しいというのは「折り紙」を考えてみたらわかるだろう。お手本があって作れば「模擬」の遊びだが、自分で勝手に作って楽しいこともいろいろある。悩んだ末に、カイヨワ先生には申し訳ないが、カイヨワの4カテゴリーに「作る」という第5の枠を加えさせてもらった。「作る」ことは、実は遊びを越えて仕事や労働につながっていく。遊びと仕事の中間領域が「作る遊び」だと捉えることにした。

こうして遊びの名前で行くと4400種(とは言え、同じ遊びが違う名前を持っているのがいろいろあるので、実数はそこまでいかないのだが)を拾い出し、それら1つ1つにその遊びの本質や起源や歴史や日本と外国との差異を解説した文章を書いていった。こうして7年の歳月をかけて本編1000㌻、子どもの遊びに焦点を当てた実技編500㌻、2冊合わせて箱に入れると重さ5㌔という遊びのエンサイクロペディアが東京書籍から刊行された。名付けて『遊びの大事典』、値段が2万円という豪華本である。執筆陣の中心だった増田靖弘氏(元日本体育協会の主事で、スポーツ評論家、故人)のたゆまぬ努力がなければ完成はおぼつかなかった。とはいえ、毎日、歯を食いしばって励んだわけではない。ああだこうだと議論を楽しんで、遊び半分に(でもないか)書き連ねていった。増田氏はいつも傍らにウィスキーの小瓶を置きながら、鉛筆舐め舐め、楽しそうに書いていた。私も本来の仕事もあったわけで、暇を見つけながら、遊び世界の奥深さを実感していた。わが40歳台の記念碑的な仕事だった。

さんさん幼児園の子どもたちと関わりながら、カイヨワの4つの遊びは、子どもの発達と成長を理解するにも有益な図式であることを発見した。まずは3歳の子供の遊びは、間違いなくイリンクスである。ぐるぐる回りが大好き。幼児園にやってきた3歳児は私を見ると「おひげ、まわして」と要求する。彼、彼女の両手をつかんで回転木馬のようにぶん回す。1人2人ならまだしも、順番待ちの列ができたりすると大変、もう完全に酩酊状態に陥る。

4歳になるとままごとが大好きなミミクリー児に変わる。お父さん役とお母さん役を決め、我が家の家庭生活を再現する。なかなかのリアリティで、昨夜の夫婦喧嘩の一部始終が熱演されたりする。幼児園には家庭の秘密がバレバレなのだ、ということに多くの父母は気づいていない。おひげも役を振られるが、必ず子ども役だった。おひげにお父さん役を振ったのでは、ぜんぜん遊びにならないということを子どもはよく分かっている。

3、4歳ではアゴーンの要素は前に出ることが少ない。この年では競争よりも協調、運動会の徒競走では、大好きなお友だちが後ろに居れば、走りを緩めて待っていて、手をつないで仲良くゴールインということも普通に見られる。ところが5歳になるとがぜんアゴーン人格が出現し、負けるもんかという白熱の戦いになる。冬の里山マラソン大会でも、5歳児の競争心は高揚し、休みの日に練習に来る子もいたくらいだ。

だが、幼児園児には理解しがたいのがアレアの境地である。むろん、じゃんけんの3すくみは理解して楽しめるし、サイコロを振ってすごろく遊びに興ずるが、自分の大切な財貨を賭けて、その結果を引き受けるというのには納得できない。偶然の審判によって自分の所有物が奪い取られるなんてとんでもない、許せない、ということだ。小学生になっても純粋な賭けを遊べる子はいないだろう。賭けるためには、神の審判を黙って受け入れる主体の成熟、あるいは自我の確立が必須の条件なのである。それは少年期から青年期の発達課題ということになる。「人生とはそもそも賭けである」と達観して大金を競走馬に投ずる。見事に当たれば大喜びだが、外れればそれっきり、誰にも苦情は持ち出せない。本命馬に100万円かけて外れてごらん、目の前が真っ暗になってめまいがするに違いない。こうして再び、イリンクスの世界が戻ってくるのだ。

遊びの回転図 イリンクス➡ミミクリー➡アゴーン➡アレア➡イリンクス

《遊びの回転図》

イリンクス➡ミミクリー➡アゴーン➡アレア➡イリンクス

2021年10月30日 薗田 碩哉

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