薗田碩哉の遊び半分

太郎くん(花子ちゃん)、遊びましょ

ずっとずっと昔、私がまだいたいけな子どもだったころを思い出してみよう。今日はいい天気、誰かを誘い出して一緒に遊びたいと考えた時にどうしたか。近所の友だちの家に行く。でも玄関から入ったりはしない。友だちがいるはずの部屋の窓辺に行って外から声をかけたものだ。

タロウくん、遊びましょ。

これをただの言葉で言ったわけでない。ちゃんと節回しがついていた。音名で言うなら、

♪レドドレ ドレレドレ

という感じである。声を張ってゆっくりと呼びかける。応答がなければ二度三度と歌い続ける。するとやがてガラリと窓が開いて太郎くんが顔を出す。「いいよ! いま行く、待っててね!」というわけで、太郎君が駆けだしてくる。連れだって近くの次郎君の家に行き、今度は二人で「次郎くん、あそびましょ」と合唱する。次郎君が仲間に加わり、今度は三人で三郎君の家へ…という次第となり、たちまち数人のグループができて「何して遊ぼう」という相談が始まる。

窓辺で遊ぶ子供たち

呼びかけられた時、遊びたければ飛び出していくが、時には面白い漫画を読んでいたりして、今は外では遊びたくないこともある。そんな時に窓を開けて「今日は遊ばない!」なんて宣言するのは、せっかく誘ってくれたのに無礼であり非情である。二度と誘ってもらえなくなるかもしれない。そこで声を大きくして、
あーとーでー と叫ぶのだが、これも当然節がついている。音名で言えば♪レードーレーということになろうか。

考えてみればこれは絶妙な断り方である。遊びの誘いを拒絶しているわけではない。お誘いに乗る気は十分に持ち合わせております。しかし、いま現在はちょっとばかり立て込んでおりますので、暫時お待ちいただいて後刻、お誘いを受けたく存じます、というご挨拶なのである。これなら友情に傷がつく心配はない。実際、漫画に飽きたら駆け出して行って、近所の空き地で遊んでいるはずの仲間に加わることもできる。そのまま出ていかなくても、それを咎める奴はいない。「後で」は婉曲な断りであることをみんなわかっているからだ。

この「遊びの誘い歌」が歌われていたのはいつごろまでだろうか。私が育った横浜の下町の記憶では、昭和30年代の前半ぐらいまでだろう。要するに高度成長以前の時代である。みんな貧乏で家もボロ家、外の物音がほとんど妨害を受けずに中に聞こえるような薄い壁の家ばかりだったから、誘い歌が有効に機能したのである。私の子どもの世代になると、公団の団地暮らしになったから、窓の下のセレナードが通用するのは1階とせいぜい2階の友だちまで。太郎君が5階では、声を限りに絶叫するしかない。これでは近所中が窓から顔を出しかねない。

わが子の世代の遊びの誘いは、堂々玄関からアタックするしかなくなった。ピンポーンと鳴らしてドアを開けると母親が出てきたりするので、「太郎君の友だちの二郎です、太郎君はご在宅で…」―ご在宅までは言わなくても礼儀正しく用件を言わないといけない。胡散臭いやつだと思われたら太郎君は出してもらえない。「太郎は今、勉強中、あんたは宿題しなくていいの?!」などと、逆にお説教をされかねない。

かくて次なる世代は、このころから各戸に普及した電話に頼ることになった。電話はやがてケータイに進化し、さらにスマホの時代が到来した。もはや遊び歌で外に出る必要はなくなり、スマホのオンラインを活用して、集まらなくても一緒に遊べる時代が来たのである。しかし、それが子どもたちにとってほんとうに幸福なことであるのか、大きな疑問を持たざるを得ない。

「太郎くん、遊びましょ」「花子ちゃん、遊びましょ」―あの子どもたちの爽やかな歌声をコミュニティの中でもう一度聞いてみたいものである。

2021年12月8日 薗田 碩哉

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